アナトリアで東ローマ帝国がイスラーム帝国と覇権を争っているころ、東方のアルタイ山脈の麓では突厥が柔然を滅ぼし、中央アジアに大帝国を築いたが東西に分裂し滅亡した。7世紀にイスラムの捕虜となったトュルク族はイスラム圏で遊牧生活を営むとともに、マムルークとして浸透していった。その中のオグズ族のセルジュークが部族を糾合し、1038年にはホラサーンの支配を確立しセルジューク朝を樹立した。1055年にはトゥグリル・ベクがバグダッドに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの地位を授かった。セルジューク朝はスンナ派の庇護者としての正当性を得ると、西アジアのイスラーム圏の主導的立場となった。
1071年マンジケルトの戦いでセルジューク朝が東ローマ帝国を破ると、アナトリアに進出し、ルーム・セルジューク朝が誕生した。ルーム・セルジューク朝の支配のもとでアナトリアのトルコ化、イスラム化が進行した。 1243年にはモンゴル族がイル・ハン国を樹立。セルジューク朝はアナトリアに中心を移した。
9-10世紀になると、東ローマ帝国は国力を回復させて再攻勢に出るようになる。その結果、11世紀初頭にはバルカン半島全土や北シリア、南イタリア、アルメニアなどを支配する大帝国として復活する。しかし、11世紀半ば頃になると再び国力が衰え、東からテュルク民族の侵攻を受けるようになる。
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