トルコ共和国の建国以来、国父ケマル・アタテュルクをはじめ、政治家を数多く輩出した軍は、しばしば政治における重要なファクターとなっている。軍は平時は憲法にのっとって文民統制に服していることになっているが、イスラーム主義の伸張や政府の混乱に対してしばしば圧力をかけ、1960年、1980年と二度のクーデタも起こした。
トルコ共和国ではクーデタ直後の軍政期を除き、軍が立法府や行政府に対する直接介入の権利を持ったことはないが、1960年の最初のクーデタ以降、参謀総長と陸海空の三軍および内務省ジャンダルマの司令官をメンバーに含む国家安全保障会議(Milli Güvenlik Kurulu)の設置が憲法に明記され、安全保障問題に関して軍が内閣への助言を行う権利を有している。しかし実際には、国家安全保障会議は経済問題、教育問題、社会問題等、あらゆる議題を取り扱う事実上の内閣の上位機関として機能しており、この権限を背景としてクーデタ以外にも軍部の圧力で内閣が退陣に追い込まれる事件も過去に数度起きた。このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。
1980年クーデタ以降、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を強めている。1990年代にはイスラーム派政党の福祉党が台頭し一時は政権の座につくも検察によって反世俗主義の憲法違反と告発され、ついに憲法裁判所(Anayasa Mahkemesi, 通常の上告裁判所である最高裁判所とは別組織)によって解党命令を受ける事件が起こるが、その引き金となったのは国家安全保障会議を通じた軍部の福祉党政権に対する圧力であった。
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