スレイマン1世の死後、1571年にはレパントの海戦でスペイン艦隊に敗れ、オスマン朝はキリスト教勢力に初めて敗北を喫した。これを以ってオスマン帝国の衰退といわれるが、実際は地中海の制海権を維持していた。しかし1683年の第二次ウィーン包囲の失敗後にはスレイマン1世以来の制度の変質が顕在化し、衰退に向かった。18世紀初頭には西欧諸国との間で、良好な関係が形成され、チューリップ時代と呼ばれる平和な時代が到来した。しかし、ハプスブルク君主国やロシア帝国などの中東欧諸国との戦争で弱体化を余儀なくされ、18世紀後半には露土戦争の結果、クリミア半島をエカテリーナ2世のロシア帝国に割譲した。
このような帝国の衰えに対しセリム3世のように改革を実行しようとするスルタンも現れたが、イェニチェリの介入で失敗し、政局は混乱した。
19世紀のはじめにはタンジマートと呼ばれる改革が実行され、さらに1876年にはオスマン帝国憲法が制定されるなど近代化が試みられたが、アブデュル・ハミト2世が専制君主制を復活させ反動化した。
この中で、バルカン半島の諸民族の独立運動とそれに対する列強の介入やロシアの南下政策などで領土は縮小し、産業革命にも西欧の後塵を拝し、対外債務の増大や国民経済の窮乏化など国力は疲弊して行った。
これに対して、危機感を募らせた青年将校たちが統一と進歩委員会を結成し、「憲法復活」などをスローガンに革命を起こした。いわゆる「青年トルコ人革命」である。この革命によって「汎トルコ主義」による近代化が推進されることになるが、「統一と進歩委員会」のエンヴェル・パシャはドイツ帝国と提携しロシアに対抗。第一次世界大戦では中央同盟側に参戦し、敗戦。オスマン帝国は崩壊することになる。
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