トルコは、イスラーム世界でも屈指の世俗主義国家として有名である。それを制度的に支えるのはフランスのライシテを模範とする極端な政教分離原則であり、国父ケマル・アタテュルクによって引かれたトルコ共和国の基本路線となっている。フランスと同じように、公共の場で宗教的な思想を公にすることは強く忌避され、様々な場で女性のスカーフ着用をめぐる問題が起こることもある。
しかしながら、トルコの世俗主義をフランス型の政教分離とまったく同じように理解することはできない。アタテュルクは全ての宗教団体の結社を禁じる一方、宗教事項の総理府所属の宗務庁(Diyanet İşleri Başkanlığı)統括とした。宗務庁は全国全てのモスクを維持設置し、導師(イマーム)や説教師を公務員として採用し、クルアーン(コーラン)学校やイマーム学校を監督運営している。すなわちアタテュルクの政教分離とは、実際には宗教はきわめて厳格な国家管理のもとに置き、トルコ共和国の進める世俗的で近代的な国民国家のあり方に反しない範囲に宗教を押し込め、完全に統制しようとするものであった。
しかし、第二次世界大戦後の複数政党制移行後は保守派政権によるイスラーム推奨政策により、宗務庁がむしろ積極的にイスラーム教育を推進することもある。1960年と1980年の二度のクーデタは、1960年においてはアドナン・メンデレス首相の長期政権期に起こった経済停滞と、それに対する対処として首相が独裁化したことに対する抗議として、1980年においては小党乱立と左右対立の激化による経済混乱の沈静化を目的として起こされたが、クーデタの実行者たちが政治家の問題行為として考えたものの中に、親イスラーム勢力との接近、イスラーム推奨政策があったことが広く指摘されている。
このような国家によるイスラームの統制はある程度の成功を収め、国民教育の結果、トルコ人としてのアイデンティティとスンナ派ムスリム(イスラーム教徒)としてのアイデンティティを渾然一体のものとして受け取るトルコ国民もかなり多くなっており、「私はトルコ人だからムスリムである」「私はトルコ人でムスリムであるが、イスラームは個人の信仰の問題なので公の場に持ち込むべきではない」といった言説もみられる。
1980年クーデタ以降は、軍などの世俗主義エリート層も国家にとって望ましい範囲でのイスラームはトルコ国民と不可分であるという認識(「トルコ・イスラーム総合論」)が主流となっており、公立学校において行われるイスラーム教育が拡充されている。