南アフリカ共和国の年表
紀元前数千年
狩猟民族のサン人(ブッシュマン)と、牧畜民族のコイ人(ホッテントット:吸着音でわけのわからない言葉を話す者の意)が住んでいた。両方あわせてコイサン人ともいう。先住民族の一つ。
300~900年代
北方つまり赤道に近い方に住んでいたバンツー系諸民族(いろいろな民族に分かれてるが、黒い肌をもち、似ている言葉を話すので、バンツー系とまとめて呼ぶ)が南に移動し、現在の南アフリカに住むようになった。この人たちも南アフリカの先住民族の一つである。
1488年2月3日
ポルトガルのバートロミュー・ディアスが南アフリカ南端、喜望峰にたどり着く。
1652年
オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックの船(ドロメダリア(らくだ)号、レイガー号、グッドホープ号など4隻)が南アフリカ南端のケープのテーブル湾に上陸し、四稜郭で五門の大砲を備えた「喜望砦」と呼ばれる砦を建設して中継基地とした。砦で身を守ろうとした相手は黒人系の人たちではなく、友好的な物々交換によって羊や牛を得た相手である先住民族のコイコイ人であった。
それ以来増えていったオランダ移民(ボーア人(ブーア人とも呼ばれる。以下ボーア人で統一))が住民から土地を奪っていって、ケープ植民地を作った。先住民族はボーア人の社会に吸収されて、カラードと呼ばれる階層を形成する。
1657年
オランダ東インド会社のボーア人は会社の仕事から自由になって入植することが認められ、ケープ(現在のケープタウン)に定住するようになった。ここから南アフリカの白人社会が始まる。ボーア人は南アフリカで生活を始めたが、原住民のコイサン人は彼らの下で働くことを嫌がったので、オランダの評議会は数百人の奴隷をケープに送っている。食糧補給基地であるケープにとって食料生産は最重要課題であったがなかなか苦労があったようである。
1688年ごろ
ナントの勅令の廃止によって弾圧を受けたフランスの清教徒農民ユグノー200家族が国を捨て、ケープに移り住んだ。それにより、内陸への入植がすすむ。マレイ半島やマダガスカルから奴隷が連れてこられる。白人入植者とアフリカの土着民、アジアからの奴隷の間の混血が頻繁に起こる。
1779年
ケープで力ッフル戦争。ボーア人が農地拡大のために、バンツーのコザ族と戦闘。バンツー系民族(黒人)と白人との最初の戦争が行われる。この後、たびたび戦いが行われ、そのたびに黒人の土地が白人に奪われた。
1795年
強大な軍事力を持っていたイギリスがアフリカを支配するためケープを占領。この後、同じ白人のボーア人とイギリス人が対立するようになる。
1796年
オランダ東インド会社破産。
1814年
オランダからイギリスヘ正式譲渡され、イギリス領となる。イギリスからの大量移民や英語の公用語化、イギリス国教会の成長などが起きる。
1816年
南アフリカ北東部のズールー人が、大王シャカを中心にズールー王国を作った。
1820年
人種差別の撤廃(ホッテントット条令)。
1832年
イギリスの司法制度が持ち込まれる。田舎に住み、英語がわからないボーア人は、二等国民として差別される。自らをアフリカーナーと呼ぶようになる(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。
1834年
奴隷制度の廃止。奴隷3万5745人が解放される。奴隷労働に頼っていたアフリカーナーの農業主は大きな打撃を受ける。反発したアフリカーナーが、牛車を連ねて内陸部に移動を始める。これをグレートトレックと呼ぶ。1834年のグラハムタウンでの有力者会議で決定され、1837年には移動の趣旨を述べた「フォルートレッカーズ宣言」が発せられた。
1838年
ブラッドリバーの戦い。グレートトレックで移動したボーア人は、バンツー系民族と各地で戦いを行なった。その中でもっとも悲劇的な戦いがブラッドリバー(血の川)の戦いで、ズールーの王ディンガーンの大軍が破られ川が血の色に変わったと伝えらいる。
1839年
オレンジ川上流域にナタール共和国を建設。
1843年
ナタール共和国がイギリスの手に落ちる。
1852年
アフリカーナーが内陸のバール川北岸地域(現在の南アフリカ共和国の首都プレトリアの周辺)にトランスバール共和国を建てる。
1854年
オレンジ川中流域(バール川南岸)にオレンジ自由国を建てる。
1856年
東部海岸沿いのナタール地方が正式にイギリスの植民地となる。
1860年
ナタール地方でさとうきび栽培をさせるため、イギリスは多くの農業労働者をインドから呼び寄せた。ガンジーが南アフリカで運動を行ったのもこのことがあったため。
1867年
オレンジ自由国の西部グリカランドのキンバリーでダイヤモンド鉱山が発見される。
1869年
キンバリーでダイヤモンドの採掘(さいくつ)が始まる。現在、そこは巨大な穴ぼこになっていて、ビッグホールなどと呼ばれている。
1872年
トランスバール東部で金が発見される。草原だったその地に生まれた町がヨハネスブルグである。
1877年
各地で金が発見されていたトランスバール共和国がイギリスに併合される。
1879年
ズールー戦争。
1880年
トランスバール共和国の独立をめざして、アフリカーナーとイギリスの間で戦争が起こる。第一次アングロ=ボーア戦争。ボーア人の抵抗を抑えるのに失敗した英国は、トランスバール独立を承認する。
1886年
トランスバール共和国の中南部、ヨハネスブルグ近くのヴィラトヴァタースランドで、世界最大規模の金鉱山が発見される。
1899年
第二次アングロ=ボーア戦争。
1902年5月
フェレーニッヒング条約締結、第二次ボーア戦争終結。トランスバール共和国とオレンジ自由国はイギリスの支配下になる。
1910年
4州からなる「南アフリカ連邦」が成立し、英国の自治領となる。
1911年
鉱山における白人黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で一般化する、白人労働者保護のための最初の人種差別法、鉱山・労働法制定。
1923年
原住民法が制定される。原住民の都市流入を規制し、都市黒人を郊外の専用居住区に登録・居住させるもの。
1934年
イギリス連邦内で独立。
1936年
原住民代表法を制定。共通選挙人名簿から黒人有権者を除外。
1943年
アフリカ民族会議 (ANC) に結集する青年がANC青年同盟を結成。請願活動主体の行動から、直接行動組織への移行。
1948年
政権を握った国民党(アフリカーナーの農民や都市のプアー・ホワイトを基盤とする政党)は、アパルトヘイト政策を本格的に進めていくようになる。
1949年
異人種間結婚禁止法が成立。
1950年
人民登録法制定。すべての南アフリカ人を白人、カラード、インド人、アフリカ人という四つの人種に分ける。
1955年
すべての人たちが平等に生活できる社会をめざした「南アフリカは、黒人、白人をとわず、そこに住む全ての人々に属する。」という文言ではじまる「自由憲章」が白人政府に反対する人たちの手で作られた。
1959年
バントゥースタンを作り、「白人国家」から「黒人国家」を分離する政策をする。70年からは「ホームランド」と呼び、形だけの「独立」を与える。
1960年
黒人に身分証の携帯を義務づけるパス法に反対する人たち69人を殺したシャープビル虐殺事件が起きる。世界中が白人政府に抗議をする。
1961年
イギリスからの人種差別に対する非難を機にイギリス連邦から脱退して国名を「南アフリカ共和国」に変える。アフリカーナー勢力が強まる。白人政府は、人間を肌の色で区別し、人種ごとに異なる権利と義務を定めるアパルトヘイトを押し進める。日本は、白人ではないにも関わらず白人として扱うという名誉白人とされる。日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深いつながりを持つことになる。
1962年
国連は、各国に任意に武器の対南アフリカ禁輸を求め、外交関係の破棄、共和国製品のボイコット、輸出の全面禁止、南アフリカ船舶・航空機のアクセス拒否を加盟国に求める決議を採択。南アフリカ政府の人種差別政策を監視するために、18カ国代表より構成される「南ア共和国政府のアパルトヘイト政策に関する特別委員会」を設置。
ネルソン・マンデラ、密出国と扇動の罪で5年の懲役判決。ロベン島に収監される。
1963年
被告がネルソン・マンデラのリボニア裁判が始まる。国連総会、106カ国の満場一致で南アフリカ共和国の政治犯の即時釈放を求める決議。
1974年
国連総会で、南アフリカ代表団の信任状の受理を拒否。アパルトヘイト政策を継続する限り、南アフリカの国際機関、国際会議への参加を許すべきではないと勧告。一方で、総会本会議でのアパルトヘイト問題の審議に、ANCとPANをオブザーバー出席させる。
1976年6月16日
ソウェト蜂起。オランダ語系の言葉でおもにアフリカーナーが使っている、アフリカースの教育の強制に抗議する高校生たちを警察が銃撃し、128名の死者が出る。
1984年
カラード、インド人にも参政権を認めた三院制議会を導入。反体制運動は激しくなっていく。国際的に経済制裁を受ける。南アフリカ各地で反アパルトヘイト運動が高まる。日本でも、少ないながらも各地に反アパルトヘイトの市民グループが生まれた。
1985年7月21日
東ケープ、ヨハネスブルグ、ヨハネスブルグ東部の工業地帯に非常事態宣言 10月25日にはケープタウンその周辺に拡大される。
1990年2月11日
反アパルトヘイトの国際世論や、南アフリカ国内の激しい反アパルトヘイト闘争などに押されて、白人大統領デクラークは、27年間も牢獄に入れられていたANCの黒人指導者ネルソン・マンデラを釈放した。
1990年7月
インカタ自由党(IFP)旗揚げ。
1991年
アパルトヘイト関連法の廃止。人種差別の法律の全廃を決定。
1993年4月10日
クリス・ハニ(南ア共産党事務局長)暗殺。
1994年4月
全人種参加の総選挙を実施。ANCが勝利。マンデラ議長が大統領に就任した。副大統領に、ANCのムベキと国民党党首のデクラーク元大統領が就任。英連邦と国連に復帰。新しい憲法を作るための制憲議会が始まる。
1994年5月
マンデラ政権成立。
1995年11月
民主的地方選挙を実施。
1996年
新憲法を採択。国民党は政権から離脱。
1997年2月
新憲法発効。
1999年6月
第2回の総選挙実施。ネルソン・マンデラの任期が終わり、ターボ・ムベキが新しい大統領になった。
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